友人に英語がペラペラな日本人がいるのですが、帰国子女でもなく、家族に英語を話す人がいるわけでもなかったそう。
じゃあ、なんで英語が話せるかと言うと、それは単純に「自分で興味を持って勉強したから」だと。
それを聞いて私は思いました。そういう、「興味の入り口」って一体何なんだろう?と。
その友人が英語に興味を持ったきっかけを聞いてみると、それは意外なものでした。
友人はごくごく一般的な家庭に育ち、幼少期に英会話スクールに通うこともなく、そのまま小学生になりました。
当時は今ほど小学校での英語教育が充実していなかったのですが、そこではじめて大人から授業を通して英語を学びました。でも、そこで英語に出会っても、興味は湧かなかったそうです。
その頃になると親はなんとなく英語の大切さに気付き、英語をしっかり勉強するようにと英語に触れさせるはたらきかけをしてくれたそうです。それでも、全く英語には興味が湧かなかった。
その頃に父親が病死してしまい、母親が友人と兄弟を女手一つで育ててくれました。
ある日、何か素敵な経験をさせてあげたいと、母が一生懸命働いたお金でオーストラリアへ連れて行ってくれました。そのオーストラリアへの旅行で、友人は本当の意味で英語と出会ったそうです。
なんと、その旅行で乗ったバスのバスガイドに一目惚れ。あの人と話したい、あの人の話す英語という言葉を自分も話したい。そこから英語への興味の扉が一気に開いたそうです。その後見事に英検1級、TOEIC満点を取り、トップの成績で奨学生として大学に入学し、留学で世界中をめぐって今は英語に携わる仕事をしています。
「えええ、そんなことがきっかけで?!」となんだか笑ってしまうような話ですが、よくよく話を聞いてみると、実は奥が深いんじゃないかと思いました。
友人はこんなふうにも言っていました。
じゃあ学校の教育も親の努力も無駄だったのかと言われると、そうではないと思う。
なんとなく英語が身近にあって、それを動機づける最後のきっかけがオーストラリアでの経験だった気がする。と。
きっと友人にとって、英語というものが自分の手の届く範囲にあるという感覚は、それまでのまわりの環境や働きかけがベースになっていて、それがあってこそ、興味が実行につながったと思うのです。
英語を教えられるものではなく、実際にツールとして使う外国人の中に入ったという経験も、実行への一つのステップになったかもしれません。
これは英語以外にも言えることなのではないかと思います。
スポーツでも芸術でも、単純に触れさせたら興味が開くわけではない。ただ、一度興味が湧かなかったからといってその扉がずっと開かないわけではない。角度の違う開け方で、ある日突然鍵が開くこともある。そういう見方はどのジャンルにも言えるのではないかと思います。
最終的な扉が開くのか、それがいつどんな時なのかは分からない。でもその素地を作っておくことは無駄ではない。ただ、どんな興味の扉を開くかは個性でもあるのだと。結果は誰にも分からないし、大人が左右するようなものではない。
そんなふうに思うと、ますます子に何をしてやれるか悩む親心ではありますが。
皆さんはどうでしょう?今興味のあることや仕事につながっているものは、いつどのように扉が開きましたか?
私は、今の人生や仕事にもつながっている「言葉」への興味の扉は少しずつ何段階かに分けて開かれていったように思います。
本を読みなさいと言われたことはなかったけれど、身近には本がありました。狭い家でしたが、母がたくさんの本を入れた本棚を部屋に一つ置いていました。私はそこからなんとなく本を手に取って、物語や言葉と出会っていきました。それが素地となっていたから、学校での国語や図書、人とのコミュニケーションの中で言葉の魅力に惹き込まれていったように思います。
そんなふうに自分の扉のルーツを探ると、なにか面白い発見があるかもしれません。
ぜひ探ってみて下さい。もう興味の扉を開いた子どもに、きっかけを聞いてみても良いかもしれません。
それではまた次回。